プールの中で宙返りしたときの鼻の痛み

三国志(7)(吉川英治歴史時代文庫 39)

三国志(7)(吉川英治歴史時代文庫 39)

冷たい人間性ゆえか映画を見て泣くだとか小説を読んで泣くだとかいうことがほとんどないわたくしなのですが劉備が死ぬところでは死ぬほど泣きますた。あれっ字が読めないよ?みたいな。こういうときって泣くまいとしているから余計苦しくなって呼吸困難になる。
あれは忘れもしない二年前、「ロード・オブ・ザ・リング 王の帰還」の公開日、ミナス・ティリスを攻めている黒の軍勢何十万を目前にしたセオデン王が「おまいらみんな死ぬ気で戦うのデース!」(※悪質な間違い)と鬨の声をあげているシーンで突然涙腺が壊れてしまいしかし映画館で泣くわけにもいかず呼吸困難になって身悶えた思い出があります。死ぬかと思った。

さっきから小説の中身の話を一切していないことに気付いたので軌道修正。
劉備の死の場面は現代作家が同じシーンを書いたら決して泣けない(少なくとも私は)。なぜ吉川英治の文章でここまで泣けるのかというと、やはり「簡潔さ」に尽きると思うのです。物足りないまでの、あっけないまでの簡潔さ。
三島由紀夫の『文章読本』に森鴎外の『寒山拾得』の文章の解説が載っているのですが、その説明がこの例に当てはまっていると思います。
同じ場面を自らくだくだしい悪文に書き直した上で、三島由紀夫は以下のように言っています。

つまりこんな文章は鴎外の「水が来た」のたった一句とちがって、現実の想像やら、心理やら、作者の勝手な解釈やら、読者への阿りやら、性的なくすぐりやら、いろいろなものでごちゃごちゃに塗りたくられています。これが古代の情景に対していつも時代物作家が、現代の感覚を持ち込もうとする過ちであります。彼等は古代の物語のおそろしい簡潔さに耐えられないで、現代の生活感覚でベタベタと塗りたくってしまいます。(中略)そういう漢文的な直截な表現を通して、われわれはその物語の語っている世界に、かえってじかに膚を接する思いがするのであります。

吉川英治の文章がそこまで漢文的な直截な表現、とは思わないまでも(けっこうくだくだしいし)、男の死に様をババーンと見せてやるぜ!泣け!みたいな現代作品を読みなれた身にはやはり文章の簡潔さそのものが新鮮に感じるのでしょうか。出師の表の読み下し文でも泣きそうになってしまった。
…ま、でも孔明が頭を床にガンガン打ち付けて泣いたシーンでそば茶噴きそうになって感動台無しだったけど。文章が簡潔だからギャグも素直に笑えますw(著者はギャグと思って書いてないと思うが)